待ちこがれた「今」@今

大人計画「サッちゃんの明日」観劇(注:ネタバレあり)。ひさびさの新作だそうである。いろんな意味で松尾スズキの真骨頂。小松和重身障トップセールスマン演技はニノ(@DOOR TO DOOR)とバトルさせたい見事さ。家納ジュンコも怪演◎。リズム・伏線・役者の声や目や身体の使い方等すべてが、「ああ、これこれ(安堵)」という出来で、最後まで安心して身を任せることができた。もちろん、「ふくすけ」「キレイ」を超越するとかそういうことではないのだが、とにかく「おかえりなさい」とでもいいたいような作品。そして猿時の活躍ぶりもうれしかった。経歴のせいなのか、「飲食店店員」があまりにもリアルで笑える。そしてヌードがたいへん綺麗になっていた。というか、演技全体が綺麗になっていたように思えた。なぜかしらん?(笑)鈴木蘭々は「キレイ」のときより印象はよかったけど(→どうしても奥菜版と比べるからだ)、もうちょっと「濃く」てもいいのになあ、というかんじ。クドカンは、前から力説していることだが、やっぱり書くより舞台に立っていてほしい。脚本家より役者宮藤官九郎の方が大大大好き。

そういえばコクーン歌舞伎版「桜姫」(7月)の感想を書いていなかった。今年観たもののベスト3にはまちがいなく入る。数々の演出のおもしろさも印象に残ったが(坊主たちが台に乗ったままくるくる動くとか、客席に水とか、突然「コクーン職員」が登場し現代と錯綜するとか)、とにかく特筆すべきは七之助の妖艶。赤が印象的。勘三郎の気魄もすごいのだが、インパクトは七之助の勝ち。せつない言い方をすれば、すでに十分円熟している人とこれから上向いていく人の「未来」というパワーの差なのかも。現代版の方と比較しても「家庭内色気質量保存の法則」というか、七之助の色気がアップしてパパの方はダウンして見えるのがなんともフシギ。ともあれ、ほんとうに凄い親子関係。ニッポンを象徴する家族は?と外国の人から問われたら、天皇家か中村家をご紹介したい、そんなかんじ。

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だってそれしか無いしシカトされつづけても@オケラ

立川の朝カルで「岡井隆の短歌朗読術 3歌人+1詩人による朗読の会4」に参戦。今回も「1詩人」は平田俊子さん。この会は聴講形式なので、なんとなく受身。するすると時間が過ぎていく。第一部は朗読の会。ほむほむ→プレヴェール「朝食」、石井先生→レーモン・クノー「文体練習」、平田先生→シュペルヴィエル「動作」、岡井先生→シンボルスカ「顫え」「可能性」をそれぞれ朗読。岡井先生は「朗読会なんだから(配布されたプリントで)文字なんか追うな(読んでる人の顔でも見てるほうがいい)」というようなことをおっしゃっていたが、いさぎよく耳に集中するのは案外難しい。どうしても目を使ってしまう。

穂村先生のコメントはやっぱり非常におもしろくて、岡井先生がシンボルスカを朗読した時、「ヘウメク製の靴履いて 足音高く床を鳴らし」という部分で「床鳴らし」と七五調に引きずられたり、「目は明るいほうの色が好き」を「月は明るいほうの」と読み違えたのを見逃さず、しかもその偶然の間違いが、むしろ詩性を高めて(しまって)いる(さすが)、というようなことを指摘。このコメントだけでも朗読会に来た甲斐があったなあ、という気がした。ほんとにおもしろい~。

第二部の題詠のテーマは「皇居」。ほんとに個性が出るのがおもしろい。それぞれ飄々として最後は問題の核心に迫っている。平田先生が「ぜひこのテーマで作品を作ってみるべき」とみんなに勧める。受身の講座の最後に思わずクビが縮んだ。題詠マラソンもまだ半分だよ・・・(苦笑)

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HP増えていってんぞ@Na・de・Na・deボーイ

Bunkamura「桜姫」(現代劇の方)鑑賞。(以下ネタバレ(?)注意)ひさびさの観劇、しかも大竹しのぶ古田新太中村勘三郎秋山菜津子(敬称略)という好みの役者ぞろいなので、たいへん期待して行った。しかもBunkamura20周年でコクーン歌舞伎版と2公演連続だし、かなりの気合で作られているに違いないと思ったからである。前半は、松尾スズキ「キレイ」の感動を再びなのか?と思わせるくらいの強引な世界観にぐっと引き込まれた。ところが。後半の展開がぐずぐず。大竹さんも勘三郎さんも存在感がすっかり薄~くなっていた。なんだこれ。串田さんの演出のせいではなく、たぶん長塚さんの脚本が練り切れてなかったせいでは?と推測する。(後半は、)ひとつもときめくセリフがなかった。これは鶴屋南北の桜姫を知ってようが知っていまいが関係ないと思う。難解なんじゃない。練れてないだけでしょ、これは。と思う。歌舞伎版の方(七之助)に期待・・・

IID(世田谷ものづくり学校)にてサカモト教授ライブ参戦。こちらは脳みそがひさびさに熱くなった(笑)ニコニコ動画ではけっこう有名な方らしい。ファミコンの曲をキーボードで演奏するのだが、やったことあるゲームはもちろん血が沸きかえるほどに楽しく、ぜんぜん知らないゲームの曲でもなんだか無性に懐かしくなって、涙がでそうなくらいだった。フシギな感覚だったなあ。先日のユニコーンでマリオを聴いて(「ロック幸せ」)あんなかんじなのだろうと思っていたけど、予想をはるかに上回ったね。単なるサントラでは味わえないリアル感が、ライブという形態によってさらに補強されている。やあ~気分はすっかり任天堂。文化だね。時代だね。頭にファミコン本体をのっけて、客がカセットを選んでインサートする演出もなかなか楽しくて○。ニコ動で、ネットライブ「ニコニコ生放送」なるものがあるのも初めて知った。これだと、居ながらにしてリクエストにも応えてもらえるそうである。すごいなー。リダとマサムネもファミコン世代だから笑ってくれそうな気がする~

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君は素直すぎるから いつもだまされてばかり@ハッピーデイ

UP時点では過ぎちゃったけど)ハッピーバースデイ、マサムネ!

練馬区立美術館で石田徹也展を見た。「飛べなくなった人」の悲しいのにうっすら幸せそうにも見えるあのまなざしを生で見ることができて幸せだ。正直いって、最初のころはあのメッセージ性があざといようにも思えたものだ。それが、画家自身の早逝によってさらに強調されたように思えて、ほんとうのところはどうなのか知りたくて、特に「飛べなくなった人」と「体液」は見たいなとずっと思っていたのだ。実際、彼の目はほんとうはどこを見ていたんだろう。よくわからないままだ。大雑把にいって1999年以降、画材は変わり、絵は「うまく」なり、画面構成は複雑になったのに、共感の落としどころは難しくなっていって、鑑賞者は孤独なまま置き去りにされてしまったように思える。うまくいえないが。だから後期の作品を見た後は、最初の頃のシンプルなメッセージ性がむしろ好きになった。きっと思ったより素直な人だったんだろう。

夜想ヴィクトリアン展トークショー「中井英夫の魅力を語る」@パラボリカビスに参加。「幽」東雅夫氏と「夜想」今野裕一氏の対談。短歌の評論で知った中井英夫と編集者として直接接触が会った方々の生のお話なので楽しみだった。偉大な作家とか歌人とかは、歴史上の人みたいに遠い存在だとつい思ってしまいがちなのだが、こうして実際に話をしたことのある方々を目の前にすると、急に身近に感じられる。今野氏が語った「(シャンソンのレコードを聞かせた後で)庭の白バラを10分間めでて裏木戸から出て行け」と言われたエピソードはかなりぐっときた。そういう伝説っぽいのってステキじゃないですか。野良猫の出没地点まで知っているほど地域に対する愛着があるのに、結局はアウトサイダーでしかいられなかったこととか、他のエピソードからはちょっと物悲しい中井像が浮んできたりもしたが自分の目の確かさに対する自信に支えられ続けた物書きのかっこよさは十分に感じられた。

テレビ版ぷちぷち短歌で穂村先生の美声を聞いていたら(というか、いちおう投稿してみたので見続けていたら)寝そびれた。相変わらずほむほむの読みの鋭さが気持ちよい。なんであんなに言葉で説明するのが上手なのであろうか。ウットリ。東直子さんも鋭い解説でよかった。「僕の死ぬ季節」の歌、あの番組であのような(芸術性の高い)歌をとっさに取り上げるセンスに惚れ惚れする。どきっとするもん。個人的には中井の評論から受けた影響が実作に生かされなくて、たいへんもどかしかったな。

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今日の覚書。

NHKの俳句でやってた原裕(はらゆたか)の「渡り鳥わが名つぶやく人欲しや」。朝からどきっとした。 そのあとの新日曜美術館でやってたジョゼフ・コーネルの「箱」。海ホテル、ほしい。ほしいものを手に入れちゃうイナバヨシエ氏のまぶしさと高橋陸郎氏が朗読した自作の詩もよかった。 山口薫の絶筆「おぼろ月に輪舞する子供達」。絵なんだけど、これは詩だ。普段は京都何必館に常設されているらしいので、いつか見よう。

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笑えるくらい瞳輝かせて@青春生き残りゲーム

そんなこんなで早や9月。「魔王」もあと1回しかない(涙)。ここ2回ほどは葛西優先なかんじで見てたなあ。嗚呼。

8月は暑かった、ということしか思い出せないくらい遠く感じる。メモというものが残っていなかったら、自分の人生なんてほんとに毎日がただ過ぎて過ぎて過ぎていっただけ、ということになりそうだ。

宝塚は真飛聖お披露目「愛と死のアラビア」。お披露目なのにちょっと気の毒なストーリー&ショー(話が暗い)で、観客としては祐飛くんのがんばりに希望を見出した。

某日、オーチャードで久し振りに松尾スズキを観る。「女教師は二度抱かれた」。まあ、「キレイ」を100とすれば75点というかんじではあったが、再び元気な芝居になって嬉しい。大竹しのぶさまは歌がたいそう上手で感動した。やっぱりいろんな意味ですごい。出てるオーラの質が違う。染五郎さまは目を覆いたくなる白ぽにょ肉体で(爆)、これが朧の森のあのお方か、と嘆きたくなった。好意的にいえば、役作りなのか?(笑)彼が「ドラキュラ」にたとえられるシーンがあり、パパ幸四郎の「ドラキュラ その愛」を思い出して胸が熱くなる。1つの芝居で人生が変わってしまう感覚。ちがう世界にシフトする感覚。すごかったよなあ。しばらく感じてないけど。「メタルマクベス」は生で観てたらそうなったかもしれないなあ・・・などと感慨が横道に逸れていく。もとい、「文學界」にシナリオが載っていたので買って読んでみると、セリフとして聞き逃した言葉がいっぱいあったのだが、どれも懐かしいほどに松尾さんらしいリズムで、読むだけでわくわくした。なんで一時期このリズムが感じられなかったんだろうかと思う。悪い夢だったのか?

美術展では国立博物館の「巨匠対決」が今年最大かなあ~というくらいゴーカだった。最近は切り口や見せ方の工夫も相当におもしろい。イヤホンガイドは豪華声優陣で彩られており、(オタク、ではなく昔風に)「マニアック」な趣向であった。次元やシャア少佐が美術について語るというのもステキです。風神雷神は目線のあってない宗達の方がスキだ。

そして(野外は断念したが、)夏のスピッツも、当然ながらなしではすまされない。ロックロックこんにちはin仙台に1日だけ参戦。ゲストではMONKEY MAGIC(仙台在住)がとても気持ちよかった。もちろんフラカンもがんばっていた。えらいなあ。tacicaというバンドは第一声から「○ンプ」とダブってしまい、暴力的な音と暗めMCが相まって、辛かった。かなりアウェーなかんじでしたね、とほうぼうで囁かれていた。さてスピッツの面々は元気だった。マは夏痩せ。お楽しみ今夏のカバーは「LALALA  LOVESONG」か「さすらい」のいずれかだったが、12日はテツヤの「ナオミよ~」付でラララが聴けてよかった。「名前をつけてやる」が聴けたのもなんだか嬉しかった。MCはそれ以外特筆すべきこともなかったように思うが・・・その他、カバー以外のセトリを見ずに臨んだので、「夢追い虫」の不意打ちをくらって倒れそうになる。これを歌おうという気分の夏だったのか。そうなんだ。ありがとね。これだけでこの夏、思い残すことはなにもないよ。会場で初めて会ったスピ友さんのスピ友さんと、最後は「よかったねえ~」と抱き合ってヨロコビを分かち合った。めでたしめでたし。

(スピッツ短歌)

2009年         一人の時をやりすごす冬眠前に見ておくマサムネ

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キビしい時もあるけれど@ハイファイ・ローファイ

びっくりした。7月が飛んだ。もう8月半ばではないか。

劇団イワサキマキヲとゆう2人ぐみのコントを観にいく。片割れの岩崎宇内くんはコントだというのにダークさがキツ過ぎだったが、うまくはまるとおもしろかった。海に行こうとした2人の男の子がカツアゲされて海に行けなくなり負け惜しみしながらカラオケに行くコントで「チェリー」が熱唱されたため、人と違うところでバカうけしてしまう。

映画。7月になってから気がついて慌てて走った「非現実の王国」(ヘンリー・ダーガーの映画)・・・あんなに(from 2006?)来るのを心待ちにしていたのに、気がついたら本上映終了でレイトショーロングラン上映になっていた。危ない危ない。その夜の観客はなんと1人であった。映画館貸切?(爆)さすがに緊張した。背景が白で字幕が白いので途中なんだかよくわからなくなる。トレイラー(http://www.vh1.com/movies/movie/249898/trailers.jhtml)で繰り返し見ていたアニメーションがたくさん見られてよかったが、なんかそれ以上の新鮮さはあまりなかったように思う。

講演会。安藤忠雄氏がオリンピックを見据えた東京再開発について語った2時間(機関銃トーク)。渋谷の街が美しくなるのは先のこととしても、緑化で都会を涼しくできるならとっとと実現させたいものである。(関係各位は何をためらっているのか?)今まで考えたこともなかったが、いろいろ都市について考えさせられた。もっと聞いていたかったな。

歌舞伎座「高野聖」。玉三郎&海老蔵を観にいく。予想外におもしろかったのは先に上演した「夜叉が池」の方だったのだが、それはさておき、玉三郎さま演じる「女」が舞台に出てきた瞬間に、空気がキッと張ったのが印象に残った。あのお話を舞台でどうやるのか興味津々だったが、最終的に橋田壽賀子せんせいもまっさおな長台詞ですべてをまとめたのには倒れた。その間、海老さま棒立ち。うーん、うー。どうなんだろう。

・・・何をやっていても影を落とすことがある。マサムネの声を聴かないからだ。別に生の声、というのではない。普通に曲を聴いていないだけではない。スピッツにまつわるあらゆる情報を、心の乾きのように求めていた日々が、乾きすぎてもう水をやっても枯れた、というか、飢餓状態で胃が縮んで食べられませんみたいな、ものすごい不調、あるいはスピッツと自分の不調和みたいなものがずっと続いていたのだ。この2ヶ月くらい?それから短歌のこともそうだ。短歌のことをずっと考えている(様な気がする)のに短歌を詠んでいなかった。短歌のことをいろいろ調べたり本を読んでみたりするのに短歌を詠めなかったのだ。なんだろう。気持ちの飽和状態。何を見聞きしても、この違和感みたいなものが消えない限り、ほんとうに気持ちを動かしたことにはならないのだろう、ということだけが明確にわかる。無駄生き。突破口はどこにあるのか。8月につづく・・・(←リダ風)

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おそろしくいい天気だ@海ねこ

「綿の国星」を初めて読む。ああ・・・「シンジケート」のタイトルはあのしりとりからだったのか・・・「子供よりシンジケートをつくろうよ」・・・あれは言葉遊びなのか毒なのか酒なのか。「爆弾!?新鮮な言葉!!」そう、確かに言葉のきらめきに溢れたマンガでした。

阿佐ヶ谷スパイダース「失われた時間を求めて」@ベニサン・ピットを観る。前売りでは伏せられていたが、奥菜恵復帰第一作になった。「キレイ」の時の眩しさは、今やどうなってしまったのかと思いきや、やっぱり眩しかったよ。笑わせるわけでもなく、泣かせるわけでもなく、淡々と淡々とした芝居(一部大暴れ)なんだが、怒りたくなるようなつまらなさもなく、ただ「君のいいたいことはなんとなくわかるよ」という気分で帰った。これでもいちおう誉めてるつもり。まあ、メタル・マクベスのようなタイプの芝居とはまったく次元が違うので、声を大にして人に奨めるというわけにもいかず、観たものだけがひっそり味わうべき至福なのかも。舞台にはこういう味もあるということで。

(妄想短)

連絡の途絶えた人の一日は長いのだろうか歳をとるまで

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たまごの中にはいつか生まれ出すヒヨコ@たまご

ゲキ×シネ(芝居をデジタルシネマ化したもの)「メタル・マクベス」を観た。久々に感服。

生ものにこだわる者としては映像化した芝居というものにいささか懐疑的だったのだが、まったく別の世界がそこにあった。単なる劇場中継とはワケが違った。もともと、セットは豪華、キャストは芸達者ぞろい、音楽よし、話よし(シェイクスピア+クドカン)、まったくスキのない芝居を、さらに見事に編集してある。すなわち無駄のないつなぎ方、UP多用するも見苦しくなく、細かいツボもまんべんなく押さえた視点の切り替わり。おいしい生ものがさらにおいしく料理されていた。たとえナマが一番よいにしても、こんなにおいしいんだから何度も味わえたらそれはそれで嬉しいのは当然だ。

「メタル・マクベス」自体についていえば、男も女もがっちりした人物像で、これが芝居だ、あるいはこれが物語だ、と感じさせる力がみなぎっている。どの人物もパワーだけでなく哀感を併せ持ち、厚みがある。これはもちろんシェイクスピアの土台に負うところも大きいのだろうが、そこにロック世界をよくぞあんなにぴったりかぶせることができたと感心する。

ネタバレ的にいうが、ダメ夫(←ある意味)の尻を叩いて王を殺させたあげく自ら良心の呵責に耐え切れず狂った妻を、これまた狂った夫が心からいとおしそうに抱きしめるシーンは、日本中のだめんず女子を甘美な自己欺瞞に引きずり込まずにはいられないだろう。

観たあとに、「何かしなければ」あるいは「何かするぞ」という衝動が頭に渦巻いてずっと離れない。この作品が凄かったことの証だと思う。そうやって何かに火をつけることのできる力のあるものに出会うことは、やっぱり幸せな経験だ。

(妄想短)

裏切りを笑って許す人だから今日もこんなに裏切っている 

失って復讐したくなるほどの愛をあなたにまだ見ていない

今日もまた一人ギターを撫でている君の孤独はあてにならない

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散らかった世界は少しずつ渇いてく@トンガリ’95

あー。perfume生で聴いてみたい。

猫のホテル新作本公演「けんか哀歌」鑑賞@本多劇場。(どこの芝居観ても思うんだが)本公演って年1回ペースだっけ?1年は長いようで短いようで長い。いつも前回のことは忘れているなあ。

(以下ネタバレあり)

今回もまあ楽しんで観たことはみた。でも、もともと個性溢れる役者陣のその個性に負うところが大きくて、しっかりした芝居を観たという感じが薄い。内容は公演チラシにもあるように猫ホテ的「昭和」の世界・・・なんだけど虚構にもなれずパロディにもなれずオリジナルにもなりきれない感が残る。

映画女優役の佐藤真弓たんが、モノクロ映画の女優の声(というかもはや「音」)を模した、ほにょほにょした声で本読みしたシーンにはぞくっとした。いつもながら真弓たんはホラーにも似た非日常を演技によって描き出すのがうまい。あとガンツさんの演じ分ける「おかしな人」と「おそろしい人」の落差もおもしろい。社会というのは「悪」という言葉では分類できない、こんな嫌な大人がいるんだ、という見本のような人物を演じると天下一品かも。いけしんは長井大を引きずりすぎ(笑)岩本さんは実人生でも谷所長なのではないかと心配になる。中村まことさまは珍しく悪さが不足。菅原さんは久々の怪演があってよかったが、後半もっと嫌さがあってもよかった(←ここんちの芝居に何を求めているのか自分でもわからない・・・)村上さんはいつも全開で大好きである。主演たる池鉄は至っておとなしかった。ラスト(のオチ)はまずまずとはいえ、いつも全体に立ち込める「やー」なかんじとか「ヘン」なかんじが薄かったんだと思う。ぜひ次回は「ストーリー的に」濃い味のが食べたい。

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なんで?飛びそうだ@けもの道

まだスピッツツアー前半戦2DAYSの記憶もそこここに残る神奈川県民ホールにて熊川哲也(以下「王子」)Kカンパニーのバレエを初めて観る。白鳥の湖。

貴重なチケットをお譲りいただいたので、これも何かのご縁と思って。

場所柄なのか何なのか、客層は地味めで意外。オーチャードとかだと全体がもっと(なんというか)華やいでいた気がする。

舞台装置・照明・衣装は豪華だった。いいなあ、ゴージャスで。最初にオデットが白鳥に変えられた瞬間の後姿にかなりガツンと衝撃を受ける(オペラグラスってたから余計にね)。期待倍増。そして登場するだけで王子は王子らしいところがさすがといえばさすが。タカラヅカに似た空気。王子以外の男子がなんとなくまとまりに欠けている(見た目も)気がしたが、女子は粒ぞろい。女王は雰囲気があり、芝居としての締りがあってほっとした。それと2幕目の群舞はたいそうよかった。日本人でそろっているからなのか、全体だけでなく足元の感じとかがすごく可憐。ただしダイナミズムには欠ける。手とか短いし動きが小さいので。でも外国人の大柄な群舞よりぜったい好き。プリンシパル荒木さん、体育会系なかんじもありつつ、表現力豊かで、すばらしかった。もういっぺん見てみたい。王子はほとんど見せ場なしでずっと観客をじらしておいて、最後の方で例のジャンプをここぞとばかりに見せた。いつ来るかいつ来るかと思って待ち構えていたら、最初のひとっとびがほんとにすごかったのでクラッとした。たぶんチケット代の4/5くらいはこれを観るためのものだったかも。下世話な計算だけどね。カーテンコールが妙に長い。お客側を見ると、純粋なバレエ芸術の公演ではなくアイドル系であることがはっきりわかるが、実際に舞台としてすばらしかったからまあいいや。王子&オデ&ロッドバルトのバランス絶妙。見た目は大事だね。

ダヴィンチで穂村先生がコメントをくださったので、しばらくは生きていけると思った。「ヒース私を見て@ニジンスキー」な心地である(苦笑)伊藤整賞おめでとうござります。どんどん遠くへ行く人(その3)だ。

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あたり前過ぎる人生を切り貼りしてこのざま@ミカンズのテーマ

本谷有希子「偏路」を観る。

紀伊国屋は久し振りだが席が近すぎた。小道具の消臭スプレーでのどがひりつくくらい。だがその分、英俚可たんの泣き顔が堪能できた。3度目の劇団本谷だが、毎回ほんとうにがっつりした役者陣で充実のひとときである。そして阿佐スパが失くしてしまった初々しい毒々しさ(とか、どろどろ)がまだここには満載。客側からいえば今回のは、あるいみ元祖「いっぱいのかけそば」とおんなじで危ない試金石である。うっかりしたことは言えませんねえ。彼女が呈示してくる感情は、たぶんだれもが持っているものではないのだと思うが、思い当たる人にはたまらないツボ押しになる。でもトータルではちょっと冗長だったかも。イヤというほどではないが。でもとにかく全員役者がよかったなあ。近藤芳正さん熱演。

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それでも感じる赤い炎の誘惑@8823

昨日の西荻の出演者、北尾トロさんが抜けてた!失礼しました・・・

微妙に怪談気分継続中。

(妄想短)

追い縋る君の心は怪である今日また佇む影見る改札

真夜中に目覚めた訳を思い出す丑三つ時の体内時計

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甘くて苦いベロの先@夜を駆ける

歌人の穂村弘さんが「てのひら怪談」のトークイベントにゲスト出演されるということで聞きに行った。「てのひら怪談」は800字以内で怪談を、というオンライン公募の(文学上の)試みである。第四回にして著しくレベルが向上したため出版の運びとなったそうであるが、実際読んでみると、たしかにかなりおもしろかった。穂村さんが書いているポプラ社のweb連載「天国さがし」にも登場する東雅夫さん(選者)が司会。選者加門七海さん福澤 徹三さんのほか、なんとサプライズゲストは京極夏彦さん&平山夢明さんだった。ごーかだ。

トークの内容で興味深かったのはてのひら怪談と短歌との比較。以下メモ書き風再録。かなりうろおぼえ。

そもそも怪談は文学ジャンルとしてではなく、一種のコミュニケーションツールとして存在してきた。江戸時代以前にいまあるような怪談というものは存在していなかった。しかしネットというメディアと怪談は相性がよく、短歌の題詠に通じるような「800字の怪談」という制限を設けたことにより、洗練の度合いが進んだ。つまり、ショートショート、詩、オチの余韻等、単なる怪談の要素以外の幅が出てきた。穂村氏によれば、ここで朗読した作品「矢」「火傷」では、(怪だけでなく)人生などのメタファーすら見えてくる。

京極氏。文章にはうまいもへたもない。意味が伝わればよい。さらには意味以上のことが伝わればよい。だが(実際は「伝える」ことはできなくて、)相手が「伝達された!」と思えるかどうかしかない。プロとアマの差は、いい作品をずっと出し続けていけるかどうかだけである。(短歌もだ・・・)

幻想も怪奇ももともと日本のものではなかった。怪談の定義についていえば、本当にあった話かどうかは問題ではなく、プレゼンテーションの仕方の問題である。そういう意味で800字制限は武器になりうる。なぜなら怪談のキモは「情報の欠落」だからである。

(これも短歌に似てる・・・)

いわゆる「超短編」の試みは500字制限で、これだと詩の方へ行ってしまう傾向がある。(800字だと小説・物語になれるということらしい。てきとーに決めた字数にしては成功だった、と東氏)詩になると、(選考する目からいうと)読み手のハードルが上がってしまう(=辛い)。小説はゲーム性もあり、読むのが楽しい(穂村氏)

類想の多さが目立ったが、(快速のとまらない休日のホームに・・・、アンティークの人形が・・・など)逆にテーマが同じだと優劣はすぐわかる。

プロからアマの境界がグラデーションになっているのは怪談も短歌と同じ状況といえる。

短歌だけで食べてる人はいない。長編とちがってこの制限でうまく書ける人というのがいるかもしれない。陸上競技で幅跳び(?)と三段跳びはあるが二段跳びはなくて、もしかして二段跳びというジャンルがあればそこで才能を発揮する人がいるかもしれない(てのひら怪談=二段跳びになるか?)、という穂村さんの話(これはどこかのイベントでも聞いた気がする)。多くの文学ジャンル(本格推理小説、みたいな)がそうであるのと同様、怪談の「定義」や必要不可欠の要素は決められないが、読めばこれは「てのひら怪談スタイル」だ、とえるようなジャンルがいずれは確立されるかもしれない(加門さん?)。

選者加門七海さんは「恐い話が好きなので恐い話を読ませてくれ」と懇願していた(怪談の審査なのに恐くない作品ばかり、というのが皮肉というかおもしろい)。だが選ばれる作品はどこか一点(最後の1行とか)で怪談たりえている、というかそういう着地のさせ方をちゃんとしている。これもプレゼンの妙。

アベレージ80点取れることはプロになる条件ではあるが、傑作(120点)が生まれるためには外部の力を必要とする。読み手の感情(外部力)が怪談を怪談に仕立てていく。

怪談としてラベリング(パッケージング)されて世に提示(プレゼン)されることによって怪談になるのであって、ジャンルなんて「商業的ラベリング」によって確立されるものだ。そして型ができたときにはそのジャンルはもうおしまいで(爆)、そこへ進んでいるときがいちばん面白い(京極氏)

この暗中模索が楽しい。

     ・・こんな感じで。もっと楽しげだったんだが割愛。

京極さんの切り口はおもしろかった。「文学版村上隆」なところもありで。今日はゲストだから口数少なめだったが、穂村さんのコメントは毎度説得力がある。文章力がしゃべりにも出ているかんじ。普通は書くようにしゃべることはなかなかできないものだ。

(短歌だろうが怪談だろうが)要はたくさん、ずっと、いいものを書けるかどうかということだった。

スピッツで言うと「夜を駆ける」「トゲトゲの木」とかは、どこかしら「てのひら怪談」な匂いを持っているような気がする。空気としてね。

(妄想短)

嫌われたその日に買った緑茶にはもちろん茶柱は入っていない

首都高の継ぎ目に弾む3号線 君ならどんな歌を詠むのか

ほむほむのトーク青縞シャツの謎何枚あるのか一枚なのか

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本当は犬なのに@ローテク・ロマンティカ

先日、大人計画「ドブの輝き」を観た。オムニバスとはしらなかった。しかも2つめはショートフィルムだし。クドカンの「涙事件」は芝居としてなかなかおもしろかったが、松尾さんの「アイドルを探せ」はヒドイ。ちゅーとはんぱな。たぶん演劇以外の仕事が多すぎるのでナマの演劇を練るエネルギーが足りないのであろうと思われる。無理にやらないで2年に一回でいいから初演の「キレイ」や悲劇協会「ふくすけ」みたいな、ずん、と響くものを観たいと思う。チケット取りがたいへんなわりに得るところが薄い。別に笑いに行ってるわけじゃないし。

クドカンは毎度のことながら脚本家としてよりも、役者としての存在感の方がぜったい魅力的だと思う。今回の公演は吐夢の怪演にかろうじて救われたかな??

(妄想短)

もっさりと「電車がきます」の文字が点く そうかやっぱり来てしまうのか

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笑えるくらい瞳輝かせ@青春生き残りゲーム

原美術館に「ヘンリー・ダーガー展」を観にいく。わくわく。2005年の資生堂ギャラリーを見逃してから1年半もたっている。去年、恵比寿でドキュメンタリー映画をやると聞いていたのだが、見逃したのかも。米amazonDVDが買えるそうである・・・いつもステキな原美術館だがGWなので如何せん人多し。今回はこの作品群の“暗い部分”には重きをおいていないようで、わりとフツーの美術展みたいだった。作者の人生がすごい、発見された経緯がすごい(家主がアーティスト)、研究者でも全部を読んだ人はいない(15000ページ超)等々、わけのわからない熱を帯びた世界のはずだが、そのヘンさ加減はあまり強く伝わってこなかった。とはいえ、作品中の少女たちの顔を見ていると、ダーガーが「おおー!この表情萌えー!」と叫ぶのが聞こえるような気がしてくる。作品の緻密さと、掛ける何千倍のボリュームの絵と字が残されたという事実だけでもクラクラすることは間違いない。先日来いろいろ紐解き始めている短歌のあれこれの中に、ネット短歌の是非というテーマがあるが(短歌は自己表出の手段→必ず他者を必要とする→誰も見てなくていい、またはいつか誰かが見出してくれるというのは甘え?・・・などなど)、ダーガーみたいなのは、「自己」とはまったく切り離された純粋芸術なのだろうか?アールブリュット系の作品を見ると、人間の営みと他者との関係性について、あるいは「孤独」の意味について考えさせられる。

(ダーガー短)

壯大な孤独なのかと思いきや 切り抜きの少女みなこちらを見ている

(スピ短)

日差し避けバス待つ間ハネモノを聴いたよ風が吹き抜けるねえ

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悩み疲れた今日もまた@ジュテーム?

「村上龍のカンブリア宮殿」ゲストは村上隆氏@スーパーフラット。

彼の作品、かなり前から好きなんだが、彼自身が金儲け主義な印象を持たれてるということは今日はじめて聞いたのでちとショックだった。なんだか理論武装してるっぽかったし。でも言葉を持ってストーリーを伝えることの出来るものがマーケットで売れることができるというのは理解できるし、芸術はマーケットに乗ることによって富をもたらし、それでまた作品を作ることができるのは道理なんだろう。出て行かなければ知られもせず認められもしない。うーん、だからといってマーケットに打って出ない芸術は価値がないのかというともちろんそんなわけはないと思うが、難しい問題だなあ。考えるに、短歌という形式は、文学という芸術のひとつになりえると思うけど、フツーに考えて世界で広く受け入れられる媒体にはなりにくいと思う。あまりに小さいし。絵や音楽に比べて言葉の縛りは大きいし。ああ、でも数があるとインパクトあるかもね。1万とか2万とか。マジで。

(妄想バレンタイン短その2

如月の少女の熱の世に満ちて恋の渦なら巻き込まれよう

アパートの部屋に置き去りのジャンポールエヴァン君は両刀遣いじゃなかった

なまぬるき恋の行事に苦笑い明日なき二人手を握るだけ

(スピ短)

同じ月見てるマサムネ 実在の街を今夜も自転車で行く

(転ばないでね。)

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笑顔は無理に作れないけど@ミカンズのテーマ

今日の新日曜美術館は「写楽」の特集。写楽の役者絵は「あまりに真を画かんとてあらぬさまにかきなせしかば、長く世に行われず」、つまりホントっぽく描こうとして、「(モデル本人的には)描かれたくないような絵、ありえない絵」に描かれたため、すぐやめになった・・・といわれているらしい。写楽の絵はデフォルメと思われていたが、実際には輪郭やしわを描いたり、化粧のテクニックの細部までを忠実に描き込んだリアルな絵だった、という解説はおもしろかった。「ミーハーなファンは結局美しい役者絵を求めたので、ある意味リアルな写楽の絵は時代に受け入れられなかった」という考察である。

その中で、役者のリアルな姿、人間的な面、あるいは端役の役者の絵まで見たいと思う客は、ミーハーと言うより芝居全体を見る演劇評論家的な客であろう、というようなことが言われていたようだったが(違ってたらスミマセン)、そんな高尚な人ばかりではなかったのではと思う。役者のリアル生活や楽屋話、無名の役者の詳細などを知りたがるディープなファン、「役者オタク」もいたと思うんだが、当時はまだ「オタク文化」がなく、実はプロデューサー蔦屋重三郎はそれに火をつけることを狙ったんじゃないかなあ、と空想。もしそれが当たっていたら、役者絵には舞台上ではない役者の日常生活の絵なんかもいろいろ描かれるようになっていたかも。でもこの時代にそれは根付かなかったということだ。いまでこそ、タレントの「生写真」を売る店(まだあるのか??)では、売られる写真の種類の数は人気のバロメータだし、タカラヅカの正規写真でも舞台のと、普段顔のと両方売ってるし(笑)それは「素」な部分に迫りたいというニーズがあるからだろう。それにつけても今年のマサムネ破顔一笑のベルゲン年賀状の写真を採用した人はスゴイ・・・素なスの魅力全開だ。そしてその先にさらにほんとうの「素」が隠されて・・・

(妄想短)

デタラメに見えた君にも様式美 だから何度も魅かれるのかも

1丁の豆腐余らす夕べには君の茶碗を買いたく思う

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